2014年06月11日

【古川】サラエヴォの黒い手 解説7 ユーゴスラビア史2

前回の続きです。ナチスの侵攻、そしてクロアチア人とセルビア人の血みどろの殺し合い、血の嵐が吹き荒れたユーゴはどうなったでしょう?

勝者はナチスでもウスタシャでもチェトニックでもありませんでした。後の大統領チトー率いる、パルチザンという共産党ゲリラ組織がナチスからユーゴを解放しました。チトーはクロアチア人とスロベニア人のハーフで、特定の民族に偏らず、全南スラブ人の団結を訴え幅広い支持を得ます。こうして戦後誕生したのがユーゴスラビア社会主義連邦共和国(最初は連邦人民共和国)です。

国名からも分かる通り、王国時代の反省から連邦制が採られました。即ちセルビア、クロアチア、スロベニア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの六つの共和国が認められ、また全民族の平等がはっきりと謳われたのです。チトー個人のカリスマ性と相まってこの仕組みは割と上手くいきました。多民族国家ユーゴがかつてない安定を得た時期です。チトーはこの体制にとって何が一番の毒かちゃんと理解してました。それは民族主義です。チトーは自分への批判には寛容でしたが、各民族の民族主義は厳しく取り締まりました。そして自分達は『ユーゴスラビア人』だという自覚を国民に植え付けようとしました。この試みはあまり上手くいかなかったようですが、チトーの存命中、国民は彼を尊敬し従います。

1980年のチトーの死までの30年あまり、概ねユーゴは平和でした。『サラエヴォの黒い手』の冒頭はそんな時代のシーンから始まります。
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2014年06月10日

【古川】サラエヴォの黒い手 解説6 ユーゴスラビア史1

『サラエヴォの黒い手』の冒頭は1970年代のサラエヴォから始まります。この時代、ボスニアはユーゴスラビア連邦の構成国でした。今回は事件の後の歴史、ユーゴスラビアのお話です。

今は亡きユーゴスラビアという国の名前は、「南スラブ人の土地」という意味です。第一次世界大戦後、セルビアとモンテネグロにオーストリア領の南スラブ人地域を合わせてユーゴスラビア王国が誕生します。王位はセルビア王が就きました。これは南スラブ人の統一であり、建前は南スラブ人という一民族による国民国家とみなされていました。

しかし現実には南スラブ人という意識はあまりなじみませんでした。セルビア人にとってはユーゴスラビアは大セルビア主義の実現であり、ユーゴの主人はセルビア人と考える人が一般的でした。他の人々は結局セルビア人に牛耳られているという不満が生まれます。徐々にこの不満は膨れ上がり、悲劇が起こります。

きっかけは第二次世界大戦です。1941年、ナチスの後ろ盾でクロアチアが独立。ほぼ同時にドイツ等の枢軸軍がユーゴに侵攻。あっという間に占領され、王国は滅びます。ドイツ、イタリア、クロアチア等で分割されてしまいます。その後、クロアチア人の極右組織ウスタシャはセルビア人の虐殺を始めます。犠牲者は70万とも100万ともいいます。セルビア人も黙ってはいません、チェトニックというゲリラ組織が、ゲリラ活動そっちのけで熱心にクロアチア人や他民族を虐殺します。この南スラブ人同士の凄惨な殺し合いが、現代のユーゴ紛争に繋がります。

長くなったので続きは次回に。

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【古川】サラエヴォの黒い手 解説5 国際関係2

では何故、セルビアとオーストリアの関係が第一次世界大戦に発展したのかというお話。当時のヨーロッパ五大国、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアの関係を中心にお話しします。

当時のヨーロッパの国際関係はこの五大国にほとんどの決定権がありました。他の国は五大国のどれかを頼ることで、自国の利益を守っていました。19世紀後半、その後のヨーロッパ事情を大きく変える事件が起こります。ドイツの統一です。それまでいくつかの王国に別れていたドイツがプロイセン王国により統一されたのです。これにより人口も多く、軍隊の強い国が誕生したのです。しかもこの強国は露骨に帝国主義的な拡大に乗り出し、ずんずんと軍備を拡大しました。

オーストリアは複雑です。この国も支配層はドイツ系なので、いわばドイツ帝国は後輩なんですが、喧嘩は後輩の方が強いのです。結果先輩と後輩はドイツ系同士仲良くすることを選びます。イタリアも入れて(何故かドイツ人はイタリアを同盟に入れて後で後悔するという変な癖がある)三国同盟という軍事同盟を結びます。気に食わないのはドイツの東西の隣国、フランス、ロシアです(この当時ポーランドはロシア領)。更にドイツの台頭を喜ばないイギリスも含めて三国協商という軍事同盟を結びます。この協商対同盟というのが第一次世界大戦の基本構造です。

さて東西を敵に挟まれたドイツは考えます、「もし戦争になって挟み撃ちされたら負ける」と。そして一つの結論に達します。「戦争の時は、まずフランスを速攻で倒し、返す刀でロシアを倒そう!」と。そして先制攻撃を大前提にもしもの為の戦争計画を練りに練ります。何せ出遅れれば挟み撃ちですから(実際そうなった)必死です、ロシアが戦争準備に入った時点でフランスを攻める計画が完成します。

さて1914年サラエヴォ事件が起こりまして、オーストリアがセルビアに宣戦布告します。セルビアを保護するロシアが開戦を準備します。この時点で各国とも世界戦争は回避しようと動きます。しかし同時に挟み撃ちを避ける為に、ドイツがいち早く動きます。ドイツがそう動くなら、攻められるフランスやイギリスも動かざるを得ません。戦争回避の努力は時間切れで失敗します。こうしてドイツ、オーストリアの同盟国対ロシア、フランス、イギリスの協商国という大戦争が始まってしまったのです。ちなみにイタリアは案の定裏切りました。

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2014年06月09日

【古川】サラエヴォの黒い手 解説4 国際関係1

さて今回はセルビア、オーストリアの関係のお話です。

19世紀以前、バルカン半島の大部分はオスマントルコ領でした。セルビアも例外ではありません。で、19世紀以降、セルビアは独立を勝ち取っていくわけですが、この間セルビアはオーストリアを頼ります。大国オーストリア=ハンガリー二重帝国の力を後ろ盾として、軍事的・経済的な独立を守っていたわけです。例えばこの当時のセルビアの主要輸出品は豚だったのですが、輸出先はほとんどがオーストリアでした。

この状況は1903年にがらっと変わります。親オーストリアで独裁的な国王が青年将校のクーデターで殺害されたのです。別の王家から迎えられた王は親ロシアでした。セルビアとロシアは同じスラブ人の国です。どうせ頼るなら同じスラブ人国家を頼り、オーストリアと対抗することを選んだわけです。当然、オーストリアは面白くないので経済的にセルビアに圧力をかけます。詳細は省きますが豚戦争と呼ばれる経済戦争がこれです。ところがなんと、セルビアはこれをはねのけ、新たな輸出先を開拓して経済的に自立してしまうのです。

関係悪化のとどめが1908年、オーストリアのボスニア併合です。セルビア系住民も多いボスニアの併合にセルビアは猛烈に反発し、戦争の危機が生まれます。セルビアもオーストリアも戦争を覚悟しますが、戦争を望まないロシアがセルビアを脅し、ドイツがオーストリアを制止したことで、戦争は回避されたのです。しかしながらこのこじれた関係からサラエヴォ事件が起こり、結局は第一次世界大戦に繋がってしまうのです。

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2014年06月08日

【古川】サラエヴォの黒い手 解説3 民族と国家

今日は我々日本人には感覚として掴みにくい、国家と民族の問題をセルビア人を例にして解説してみます。

大前提として実は民族という概念は後出しです。どういうことかというと、サラエヴォという街に、同じ言葉(セルビアクロアチア語)を話す人達がいました。長い歴史の中でこの人たちは、セルビア正教、旧教、イスラム教の三つの宗教に別れました。19世紀頃、セルビア正教徒はセルビア人、旧教徒はクロアチア人、イスラム教徒はボスニア人、と自分達の事を思うようになりました。だから民族の違いはあいまいなもんでどこの宗教に帰属するかの違いだったんです。

ですが19世紀以降、一度民族の概念が出来ると、人々の帰属意識は民族中心になります。で、国家と民族の問題が発生します。セルビアは独立しましたが、そのセルビア領以外にもセルビア人は沢山住んでいたのです。彼等はセルビア国民ではありませんがセルビア人です。帰属意識もどちらかといえばセルビア寄りなのです。

今回の登場人物は数名の例外を除いてセルビア人です。但しセルビア国民のセルビア人と、オーストリア領ボスニアに住むセルビア人の二つのグループに別れます。国籍は違うのですが彼等は同胞です。この複雑さが理解できないとバルカン諸国は理解できません。ちなみにセルビア内にも他民族が30%くらいいます。人口構成が一番複雑なのはボスニアでボスニア人、セルビア人、クロアチア人の三すくみです。

ちょっと簡単に説明しようとすればするほど、難しくなってる気がするのでここらでやめておきます。セルビア人=セルビア国民ではないということだけ覚えて下さい。

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2014年06月07日

【チョコ古川】サラエヴォの黒い手 解説2 サラエヴォ事件

さて解説の第二弾はそのものずばり今回の題材であるところのサラエヴォ事件についてです。

1914年6月28日、サラエヴォを来訪したオーストリア皇帝の甥で次期皇帝フランツ・フェルディナントとその妻ゾフイーが暗殺されました。この事件をサラエヴォ事件と言います。

Wikipediaでもどうぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

当時オーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国といって、現在よりもはるかに広い領域を支配してました。現在の国名だと、オーストリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのほとんどがオーストリア領だったのです。皇帝は歴史ある王家ハプスブルク家でした。

1908年、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合します。サラエヴォはボスニアの首都です。ボスニアにはいろんな民族がいますが、なかでもボスニア在住のセルビア人はこの併合を喜びませんでした。どうせ併合されるなら異民族の国ではなく、同胞の国であるセルビアに吸収される方が良いと考えていたのです。勿論、セルビア人以外にもオーストリア支配を喜ばない人々は沢山いました。

反オーストリア運動は『青年ボスニア』という組織を産みます。そしてこの組織の一部過激なメンバーがサラエヴォ事件の実行犯グループになりました。

さてお隣のセルビアもオーストリアのボスニア併合を喜びませんでした。当時セルビアで盛り上がっていた大セルビア主義によれば、セルビア系住民の多く住むボスニアは、セルビアの領土にするべきだったからです。この大セルビア主義を信奉する軍人の秘密結社がありました。『黒手組』です。どちらが主導かは未だに定説がありませんが、青年ボスニアの過激メンバーを黒手組が支援したのは確かです。暗殺を助けることで、大国オーストリアの勢いを止めようと企んだようです。

事件後、この企みが明るみに出て、オーストリア対セルビアの構図から第一次世界大戦に発展していきます。
オーストリアを憎んだ若者たちのテロが世界を戦争に引きずり込んだのです。
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2014年06月06日

【チョコ古川】サラエヴォの黒い手 解説1 街について

公演間近になってまいりました。たくさんのお客様にご予約いただいている『サラエヴェの黒い手』。今日からちょっとした事前の作品解説をしたいと思います。良かったら目を通してくださいませ。

今回の物語は、サラエヴォとベオグラードという二つの街を舞台としています。現在、サラエヴォはボスニア・ヘルツェゴビナの首都。ベオグラードはセルビア共和国の首都です。

サラエヴォという街は中世からイスラム教、セルビア正教、カトリック、ユダヤ教の四つの宗教が共存する多民族都市でした。イスラム教のボスニア人、セルビア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人がこの街で仲良く住み分けていました。独特の美しい町並みを誇る街だったそうです。ただ近代、その多民族の共生が故に数々の悲劇が起こります。そのサラエヴォに生まれ育ったセルビア人の若者たちが物語の一方の主人公です。

ベオグラードは中世からセルビアの中心でした。そしてこの辺の国々が連邦を作っていたユーゴスラビア時代も政治の中心でした。このベオグラードのセルビア王国の軍人たちが物語のもう一方の主人公です。

バルカン半島の複雑な歴史はなかなか語り尽くせるものではありません。でもちょっと調べてみると知らなかったことばかりで楽しいです。観劇前にちらっと検索かけてネットサーフィンするだけでも楽しいかもしれませんよ!
posted by 劇団チョコレートケーキ at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする